JOURNAL

建築の主体性について

複雑化・高度化する社会では、私たちは外部のシステムに受動的に依存している。
自分達がものごとをコントロールしているという感覚は希薄になるばかりだ。
スマホが壊れたら自分で修理をすることができず、バッテリーの交換すら自分で行うことができない。
少し昔はバッテリーの交換は自分でできたし、分解することも可能だった。
建築自体も同じである。昔の民家などは、ほとんど全てを木、土、石、釘など身近にある素材でできていたため、少しの不具合は自分達で直すことができた。
しかし、今では、工業製品や接着剤が多用され、作られ方が見えず、自分で修理することが難しくなっている。
設備も複雑化しているため、修理よりも取り替えた方が断然安価だ。
日常的に服が破れたら自分で補修したり、簡単なものだったら自分で直していた頃のように、私たちは主体性を取り戻さなければならない。

建築家の設計する建物は、建築家の主観や美的感覚、シビアな納まり、特注品、仕上がりの綺麗さなど、 ある種の拘りから、高度な技術を持った職人にしか作れないものが多い。
それらは、従来の建築作品として素晴らしいものになるかもしれない。見る人は驚き、 建築家は自慢するかもしれない。
果してそこまでする事が施主や社会にとって本当に求められている事なのだろうか。
技術を持った職人にしか作れないこと、特殊な材料やシビアな納まりによって、 建築の利用者の主体的な関わりが失われてしまう。
特別な施工者にしか作れないものではなく、誰でも、どんな施工者でも作ることができることで 世界が広がり、より建築を自由にする。
利用者自らが、傷を直したり、造作を付加したり、 少しの道具と技術があればもっとラフに使いこなしていけるものとして建築を考えたい。

将来的には、高齢化、職人不足により、建築を作るの事がよりいっそう難しくなるだろう。
オリジナリティを求める方向は、一部の富裕層や趣味に限られ、
一方で3Dプリンターは、人に頼らず短期間でものを作ることができる。
しかし、自分達では制御できないハイテクな機械に頼らざるを得ず、誰もが使いこなしたり修理することはできない。そこに利用者の主体性を見出すことは難しい。
自らの手で作って、修理していけるような冗長性がある方が良い。
もっとローテクで、ラフで、自分達だけで建てられ、修理でき、使い続けられる建築が理想だ。
そのためには、他者としてではなく、身近な存在として建物をもっと扱いやすくしていかなければならない。
一人一人があらゆるものを外部に依存する事から自由になり、少しずつでも自分達で手を動かし、主体性を獲得していく少しのスキルと方法を身につけることができると良い。
そしてそんなことが可能な建築をつくりたいと考えている。